2014年1月9日 抽象画にはあんまりピンと来ませんが

最近の「日々の雑記」を読んで反省していることがひとつある(本当はひとつだけじゃないけど!)。昔のボクの文章って、もっとずぅっと抽象的だった、と思う。一方で、最近のボクの文章はそうなっていない。もっともっと抽象化すべきだ。そんな反省。

抽象化するというのは具体化しないということ。例えば「何月何日に誰々と一緒にどこそこの某というお店に行ったらそこの店員がこういう対応をしたので非常に不満だった」ということを書けば、これは非常に具体的である。そのお店あるいは店員に対する不平不満をぶつけるという意味では非常に有意義である。あるいはそのお店のネガティヴ・キャンペーンとしても、大方、焼け石に水的ではあっても、もしかしたら、有効な場合があるかもしれない。でも、同じ出来事を、「こういうお店の対応はお客さんにこういう不快な感情を与えるのでもっとこういう対応をすべきだったのではないか」みたいに書くと、少しは抽象化される。まるで評論家になったのではないか、と錯覚できるかもしれない。あるいはもっとボク個人に潜り込んで行って「ボクという人間はどういうときに不快を感じるのか」ということを論じてみると、これもひとつの抽象化だろう。あるいは「最近、こういう対応をするお店が増えているが、どうしてか」と分析的に書いてみてもいいかもしれない。こういうのも抽象化と言えるかもしれない。

個別・具体的に書くことと、そういう個別・具体的な出来事を踏まえた上で抽象化して書くこと。どっちが優れているというわけでも、どっちが偉いということでもない。それぞれ一長一短だ。想定される読み手に左右されるだろう。たとえば、より身近で、ボクのことを知っている人からしたら、具体的なことも面白いかもしれない。facebookで内輪向けに書くときには、抽象化されたものよりも共感を呼べるし、楽しんでもらえる可能性も高いだろうな、と感じる。一方、ボクに興味のない人、ボクと親しくない人は、ボクの個別・具体的な出来事なんて読んでもちっとも面白くない。でも、もしかしたら、抽象化することで、そういう人たちにとっても、多少なりとも価値があるもの(あるいは価値があると錯覚させられるもの)になる可能性はある。抽象化すれば、少しは高尚だと思ってもらえるかもしれない。

そんなわけで(どんなわけ?)、ボクとしては、後者を目指したいな、と思うのである。SNS的な仲良しこよしの雑記を目指すか、もっと幅広い人(場合によっては通りすがりの人)を想定して書くか、という違いで、ウェブサイト「ヘタっぴなアルコール蒸留」の中でボクが目指すのは後者だ、という認識なのである。