2014年6月29日 情報発信と責任

最近、Facebook上で児童虐待の動画を何度も見る機会があった。何しろ、みんながシェアして拡散しているのだ。そして、どうやらその動画に映っている母親が特定され、警察と児童相談所が介入したらしい。一見するとめでたしめでたしなのかもしれない。虐待されていた児童に救いの手が入ったと言える。でも、ボクは一連の動きについて、ちょっと、気持ちの悪さを覚えている。それが何か分からなくって、ずぅっと考えていた。そして、ようやく、答えが分かったような気がするので、ここに書いておこうと思う。

動画を公開するということは、それ自体が、ひとつの社会的制裁だ、とボクは思う。母親は、もちろん、子供を蹴り飛ばしているのだから、その点においては「悪いヤツ」なんだけど、でも、動画を公開することで、その母親の悪い行いは、白日の下に晒されて、不特定多数の人が閲覧できてしまう。彼女は、渋谷駅という公共の場で虐待をやっているわけだけど、でも、知人に見せたいなんて気持ちはこれっぽちもないだろう。隠しておきたいことだろうと思う。それを大っぴらにされちゃう。これって、社会的制裁だ。この母親は刑事責任を問われるかもしれない。民事責任も問われるだろうか。もしかしたら、行政的な措置もとられるのかもしれない。それらに加えて、社会的制裁も受けるわけだ。でも、それって、一体、誰が決めたのだろう。何の権限だろう。そういう社会的制裁を、素人の第三者が取り扱うことについて、ボクたちはどう考えるべきだろうか。

昔から、ボクは疑問を抱いている。バッシング報道とか、掲示板上での炎上とか、正義感の塊みたいな顔をしているけれど、社会的制裁ほど、正体不明で怖いものはない、といつも思っている。何の権限の元に、彼らは社会的制裁を受けるのか。本当に刑事・民事・行政だけじゃ足りないのか。

誰もが情報発信者になれる時代だ。だけど、発信した情報について、ボクたちはどこまで責任を持てるだろうか。そして、どんな権限が、ボクたちにあるのだろうか。

多分、そういう気持ちの悪さなのだと思う。動画を公開したことが一部では評価されている。最初にも書いたとおり、もしかしたら、虐待されていた子供には救いの手が差し伸べられたのかもしれない。それはそれで結果としてはハッピィエンドだ。でも、この方法論が正しいのかどうか。それはボクには分からない。無責任にシェアして拡散して、社会的制裁を加える。少なくとも、ボクはそこまでの権限は持っていないと思っているし、その責任も取れないなあ、と思っている。