2017年2月11日 「他人だけ完璧主義者」が多すぎる!?

最近、自分のことは差し置いて、他人に完璧主義を求める人が増えた。

たとえば女性Youtuber。彼女たちのアカウントには「ぶすじゃん!」などとコメントする人が多い。どうやら彼らは「女性Youtuberたるもの『美人』でなければならない」という信条があるらしい。でも、美人であることは有利に働くだろうけれど、女性Youtuberの要件ではない。そして、これはかなり主観が入るが、大抵の場合、「ぶすじゃん!」とコメントされる女性Youtuberというのは、平均的な女性から比べると美人だったりする。求められる「美人」の水準が異様に高いのである。

たとえばblog。書くのが本業の人とそうでない人がいる。記者は綿密な調査・取材と裏づけに基づいて記事を書くべきだろう。でも、芸能人にとってblogやtwitterは本業ではない。もちろん、こういうSNSを書くことによって集客ができるので、SNSを更新することも彼らのお仕事だ。でも、本業ではない。これは頭の片隅に入れておくべき大前提である。最近、よく芸能人のSNSの文章を攻撃する人がいる。ちょっと間違ったことを書くと、無知蒙昧のように叩かれる。でも、彼らは文章を書くプロフェッショナルではない。法律の専門家でも学者でもない。

インターネット上は誰もが感じたことを自由に書いている。明らかに偏った思考の人や、間違ったことを書いている人も多い。プロだって、間違ったことを書いているな、と感じることがある。それなのに、芸能人は正しいことを書くように要求される。もちろん、彼らの発言は影響力がある。だから、もしも彼らが間違ったことを書いたら、それは情報としては正されるべきだろう。でも、無知蒙昧と非難されることではないし、鬼の首を取ったようにバッシングすることでもない。

そういうボクの「日々の雑記」も不勉強で書いてしまったことはたくさんある。後になって、ああ、あれは間違いだったな、と深く反省することも1年に2回くらいはあるだろう。「ファンタジィ事典」なんて、もっともっと間違っていることが多い。勉強をすればするほど、間違っていることに気づかされて、そのたびに修正する。参考にした文献の記載そのものの間違いに気づくこともあるが、文脈を読み違っていることもある。文脈を読み違えるのは、大抵、その文化の背景について不勉強なときである。歴史的・社会的な背景を学んだときに、はたと自分の間違いに気がつく。反省しきりである。

人間、完璧にはなれない。周りを見れば一目瞭然だ。それを生業にしていながら、実のところ、ほとんどの人はその分野のスペシャリストじゃない。それでもスペシャリストのふりをして働いている。ボクだってそうだ。およそ10年、現在の仕事をしているけれど、まだまだ分からないことは多い。専門家だってそんなものだ。みんな、自分の能力の範囲でできることをやっている。それが社会であって、世界である。

人間はもっとずぅっと寛容であるべきだし、自分に置き換えて考えるだけの想像力と思い遣りが必要だ。